あのーーーー、ごめんなさい。
今回真面目な話をします。
この記事を書いている2026年度末。少し騒がしい話題がありました。
直接的には触れません。ただ、この数日でいろんなことを考えました。
誰かを糾弾したいわけでも、自分の潔白を証明したいわけでもない。
ただ、この機会に自分の中にずっとあったことを、ちゃんと言葉にしてみたくなりました。

まず正直に言います。
僕はクリーンを売りにして活動しているわけではありません。
「清廉潔白なコスプレイヤーです」という看板を掲げたことは一度もない。
それは今後もないと思います。
でも、人の道をわざわざ外れることはしない。
そこだけは自分の中に線があります。
少し話が飛ぶようですが、「些細なことまで含めて生涯一度も法を犯したことがない」という日本人は、おそらく9割以上存在しないと思っています。
自転車一個だって普通だと思ってる乗り方すら実は法律触れてたりするし。
信号の軽微な違反、自転車での走行、著作物の扱い、あるいはもっと曖昧なグレーゾーン。
完璧な清廉さを人間に求めることは、ほとんどの場合、現実とかけ離れた話になります。
問題は「完全に綺麗か否か」ではなく、どこに線を引いているか、だと思っています。
飲んでいい濁りと、飲んではいけない濁りがある。
清濁合わせ飲む判断が求められる場面は、大人になるほど増えていきます。
それは逃げではなく、社会の中で生きることの現実だとも感じています。
ただ、何を飲まないかを自分で決めていられることが、その人の矜持なのだと思います。

今回の件で、あらためて考えたのは「メタ認知」の話です。
何か出来事が起きたとき、感情に飲まれてしまうか、一歩引いて構造として見られるか。これはかなり大きな差だと思っています。
怒り、悲しみ、戸惑い、義憤、恐れそういった感情はあっていい。
でもその感情を燃料にして誰かを叩くことと、その感情から何かを学ぶことは、まったく別の行為です。
僕は今、戸惑っています。それは正直に認めます。
でも同時に、「この出来事が自分に何を教えようとしているか」を考えています。
人間関係における信頼の構造、自分が普段どういう判断で人と付き合っているか、そして自分の周囲にいる人たちをどう守っていくか。
メタ認知というのは、冷たくなることではないと思っています。
むしろ、感情を持ちながらも、その感情に支配されずに状況を見る能力のことです。怒っていい、悲しんでいい。
でも同時に「なぜこうなったか」「自分には何ができるか」を問える人間でありたい。

「自分と周囲を守る」という話をします。
今回のような件が起きると、SNSは一種の感情の増幅装置になります。
怒りが連鎖し、情報が錯綜し、無関係な人まで巻き込まれることがある。
その渦の中で、自分を保つためにできることがあります。
一つは、情報の精査です。
拡散されている情報がすべて正確とは限らない。
特に感情的に盛り上がっている場面では、誇張や誤認が混じることがよくあります。
「そう言われている」と「そうである」は違います。
発信する前に一度立ち止まることが、結果として自分を守ることにもなります。

もう一つは、距離感の設計です。
「野次馬的に関係者に連絡を取る」という行動は、相手にとって消耗です。
心配しているふりをして、実際には情報収集や感情の発散が目的になっているケースが多い。
それをする側も、される側も、あまり良い結果にはなりません。
今回、僕がそういうDMをお断りしているのも、自分の気持ちの整理のためです。
そして三つ目に、自分の周囲にいる人たちへの向き合い方の棚卸しです。
誰かが問題を起こしたとき、「自分はあの人のことをどこまで知っていたか」「どういう関係性を築いていたか」を振り返ることは、責任を問うためではなく、今後の人間関係の精度を上げるための作業だと思っています。
人は多面的な存在です。ある側面では信頼に値し、別の側面では問題がある。
その両方を含んで「人間」です。
これは言い訳でもなく、甘さでもなく、ただ現実の話です。
その複雑さを飲み込んだ上で、自分がどう関わるかを選んでいくことが、成熟した人間関係だと思っています。
関係性の整理については、以前もう少し実践的な視点でまとめたことがあります。

少し個人的な話をします。
僕は子供の頃、ガメラシリーズと自衛隊にカッケーーーーって思ってた時期がありました。
そしてサクラ大戦が大好き。
サクラ大戦の主人公・大神一郎が体現していたものは、「悪を裁く正義」ではなかったと思っています。
それは「守る覚悟」でした。
帝都を守る、仲間を守る、好きな人を守る。花咲く乙女たちのために剣を取る、あの精神です。
ガメラや自衛隊も同じ、「守る覚悟」。
正義の味方でいたいよな~~~~、なんて気持ちは僕はずっと持っています。
今も完全には諦めていない。
でも大人になるにつれて、「正義」が単純ではないことを知りました。
義理と社会正義が対立することがある。
守りたい人が、正しくない選択をすることがある。
そのとき、どちらを取るかは、いつも簡単ではありません。
答えは出ません。
これはたぶん、出し続ける問いです。
ただ一つだけ言えるのは、僕が憧れた「守る側の人間」は、誰かを断罪することで正義を示そうとはしていなかった、ということです。
戦うのは、守るためだった。
騒がしい季節です。どうか皆さんも、感情の波に飲まれすぎず、自分を守りながら過ごしてください。
あと「檄! 帝国華撃団」はいいぞ。みんな聞いてください。
以上。
コメント