2011/3/11のあの日

暫くは海も揺れも、怖くなったのを覚えている
これは読み物ではなく、記録だ。 誰かに届けるために書いたわけではない。
忘れないために、書いておく。
安易な気持ちで注意喚起をするなという記事を過去に書いたが、後半に仄めかされる某人はある意味注意喚起されてもいいと思っている。
だが、触れないで話を進めていくのが筋だと思っている。
その点だけご了承いただきたい。
急に揺れが来た。
最初は「また地震か」と思った。
茨城は揺れが多い。 でもすぐに分かった。これは違う、と。
揺れがどんどん大きくなって、家の中のものが落ち始めた。
とっさにコタツに潜り込んだ。妹と一緒に。
揺れが収まったとき、家の中は別の場所みたいになっていた。
棚が倒れていた。窓が割れていた。
外に逃げようとした瞬間、また小さな揺れ。
外に出たら、瓦が道に散らばっていた。
見上げると、家の真ん中から、家がズレていた。
あの非現実感は今も覚えている。
ズレた家を前に、何も考えられなかった。
頭が現実の処理を拒否していた。
祖父母に電話をかけた。
繋がるわけがなかった。
焦りと寒さの中、とにかくコンビニへ走った。
まだ誰も何も把握していない時間帯だった。
店内に客は誰もいなかった。店員だけがいた。
水と食料を、買えるだけ買った。
あの時間に一番乗りで動けたのは、たぶん本能だった。
その日の夜は、家の中で寝ることができなかった。
余震が続いていたし、家自体がもう信用できなかった。
両親の車の中で、夜を明かした。
体の芯まで凍る寒さの中、眠った。いや、寒さで気絶したの方が正しいのかもしれない。
翌朝、母の大声で目が覚めた。
「原発が爆発した!」
私はこの言葉を、他の人と少し違う恐怖で聞いた。
1999年、JCO臨界事故。
あのとき私は大事なものを喪い、事故後の雨を浴びた。
放射線というものの恐ろしさを、身体で知っていた。
だから「原発爆発」という言葉は、 私にとって他の人とは別の重さで落ちてきた。
恐怖というより、絶望に近かった。
(現実には爆発とは少し違かったが。母も動転していたのだろう)
それから1週間。ようやく電話がつながり始める。
地元の友人らと、「まずは会おう」という話になった。
誰もいない、田んぼのど真ん中の駅前で皆で集まったのを覚えている。
その時のことは下記動画の冒頭でちょろっと話している。
※上記のyoutubeライブでくっちゃべってる4人全員被災者なんだよなあ……
まあとにかくみんなやせ細り、ヒゲはボーボーのボロッボロの状態で落ち合ったのは忘れようがない。
学生にありがちな温かいものみんなで買い食いしようにも売ってないし。
でも何故かみんな遊戯王カードのデッキだけはちゃんと家から持ってきていた。
今思えば、日常みんなでプレイしていたホビーに、心の安寧を感じたかったのかもしれない。
そんな2週間のことは、今でも時々夢に見る。
風呂に入れない。ガスがない。
水も食料も、残り僅かを家族で分け合う毎日。
飢えと寒さは、人間から余裕を奪う。
イライラするとか、不安になるとか、そういう感情より先に、 ただ身体が重くなる感覚があった。
何も無い中、我が家の活気を支えていたものがある。
当時放送されていたアニメ「GOSICK」の小説だ。

是非一度プライムビデオで見てみてください
我が家はみんな活字を読むのが好きなので、僕が一人暮らしの家から持ってきたGOSICKを回し読みしていた。
ちょっとした家庭内ブームになった作品かもしれない。
(うちの家族は全員揃って会話をすることが少なかったが、C.C.さくら・ゲゲゲの鬼太郎・GOSICK・ガンダムSEED・勇者ライディーン(!?)は何故か4人揃って会話に出す存在だった)
今でもあの本を見ると「まだ読み終わらない?」と普段ぶっきらぼうな父が、不器用にも聞いてきた当時を思い出す。
1ヶ月後、ギリギリの体で大学に戻ることが出来た。
被災時にぶつけたり、作業で怪我したまんまの腕からまだ包帯が取れていなかったことを思い出す。
2週間で4キロ痩せた。
そして、数年後。
後から知ることになる。
友人が、いなくなっていた。
これ以上は、まだ書けない。 いつか書けるようになるかもしれないし、ならないかもしれない。
それでも、ここまでは記録しておく。
※思い出したことがあれば適宜追記します
2026年3月
何が「石碑」だ馬鹿野郎

こんな経験をしたのは、実に筆舌に尽くしがたい。
共感できない痛みがある、ということは理解している。
経験していない人間に、この感覚を想像しろというのは酷なことも分かっている。
だが。
それをとんでもない形で揶揄する人間が、世の中にはいる。
黙祷の時刻に、軽いトーンで「石碑を読んでおけばよかったね」と書ける人間が。
その言葉がどこに届くか、誰の胸を抉るか、一切想像せずに投稿できる人間が。
私はその軽さに、静かに、しかし確かに怒っている。
悲しみを笑いにするな、とは言わない。
時間が経てば、笑える話も出てくる。それは自然なことだ。
でも、今もあの日を生きている人間がいる。
15年経っても、3月11日の14時46分になると手が止まる人間がいる。
その人間の目の前で、その時刻に、 何も知らない顔で「石碑」を語るな。
これだけだ。 これだけのことを、言っておきたかった。
最後に

一つだけ付け加えておく。
まかり間違っても、件の方が公式案件を依頼されることはないと思う。
ただ、念のため言っておく。
もし同じ案件に出演することになっても、私はNGを出さない。
仕事だから。「それはそれ、これはこれ」だ。
誰かにNGを出すこと自体、どんな相手であれ、私はしたくない。
それが私のプロとしての立場だ。
怒りと、仕事上の線引きは、別の話だ。
この件についてより深く考えたい方は、こちらも読んでほしい。
- 守る正義と、清濁のあいだで——正義と割り切りのあいだで自分がどう立つかについて書いた記事
- 安易な気持ちで注意喚起をするな——批判やRTが何をもたらすかについて考えた記事
- 悪口の真実を知って心の免疫力を高めよう——他者への怒りや批判と、自分のメンタルの守り方について
- 「私可愛い」が招く大問題——自己客観能力の重要性——自己像の歪みと客観視について書いた記事
――最後に、読んでくれた方へ。
このブログは普段、コスプレやメイク・美容の記事を書いていて、アフィリエイト——つまり皆さんが記事経由で商品を見たり買ったりしてくれることで成り立っている。
それが僕のブログの基本的なスタンスです。
でも今回は、リンクをつける気すら起きなかった。
やるせなさと怒りと、それからどうしても記録しておきたいという気持ちだけで書きました。
それくらい、今回は特別な気持ちで書いた。
普段のブログとは全然違う記事を最後まで読んでくれて、ありがとうございます。
被災経験のある方も、そうでない方も、何かひとつでも持ち帰ってもらえるものがあれば、それだけで十分です。
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